最長片道切符の旅(1日目)
8月6日(金)
アラームは4時にセットしておいたが、3時30分頃に目が覚めた。2度寝するといけないので少し早いがライダーハウス「みどり湯」を出発することにした。こうゆう時は何故か自然に起きられる。無意識の内に気持ちが高揚しているからだろうか。
40分以上も歩き、ようやく稚内駅に着いた。ベンチで「これから旅が始まるのか」と稚内駅を見ながら思いにふけていた。
最果ての町、稚内。
かつては樺太への玄関口として、そしてオホーツクの漁業基地として賑わった町も今はどこか侘しさ(わびしさ)の中に旅人の旅情を掻き立てる。
しばらくベンチに腰掛けていると、通りすがりのおっちゃんが声をかけてきた。新潟県出身だそうだ。新潟県の魅力から日本人と外国人の違いまで幅広くそして深い話をして頂いた。とてもおしゃべり好きなおっちゃんだが、人生経験を積んだ人の話は案外参考になるものだ。
稚内駅に私の乗る列車が入線してくる。新潟のおっちゃんともお別れだ。出会いがあれば必ず別れもある。名残惜しく手を振り稚内駅のホームへ向かった。
駅員にハンコを押してもらっていよいよ「最長片道切符の旅」がスタートする。この時を4年半も待ち焦がれていた。
密かに計画し、ずっと憧れ続けた旅。
この稚内から肥前山口までの長い旅を無事に成功させるという強い思いを胸に特急サロベツ2号に乗り込んだ。
この旅は遠回りの連続である。
まるで人生の縮図のように。
旅が始まった。特急が走っているとはいえ、超ローカル線の宗谷本線を南下していく。ディーゼル特急だが、車内は大分静かである。あまりの快適さに少し寝た。列車は2時間程走り続け、難読駅名の音威子府に到着した。「おといねっぷ」と発音する。ここで下車する。音威子府はアイヌ語で「河口の濁っている川」という意味で少々残念だが、駅名と駅舎は大変趣がある。故・宮脇俊三氏も最も好きな駅名と言っていた。
以前、音威子府駅には駅そばがあって私もそれを食べたいと思っていたが、残念なことに店主の方が今年の2月に亡くなられて閉店してしまった。全国にファンも持つ「常盤軒」は長い歴史に幕を閉じたのだ。
私は村内の音威子府そばが食べられる食堂へ歩いた。「一路食堂」と言う。
音威子府そばは日本最北のそばで大変美味しいそばとして名を馳せている。そばが黒いことが特徴だ。
私はかき揚げそばの麺大盛り卵トッピングを注文した。ずっと食べたいと思っていた音威子府そばが目の前にあるのが信じられない。
旨味の詰まった出汁の味わい、そばの独特の風味とコシが感じられた。美味しいからすぐ早食いをしてしまう。悪い癖である。
音威子府からは名寄行きの鈍行で更に南下する。ユニークな無人駅をたくさん通る。旭川までまだまだ遠い。名寄でしばらく停車時間があるため改札まで行き、最長片道切符に途中下車印を捺してもらった。
名寄からは新型車両に乗った。冷房は効いているが乗っていてもなんだか味気がない。窓を思いっきり開けて楽しめる車両の方が自分には合っている。列車は小説の題材にもなった塩狩峠を行く。新型車両だから古い車両よりもスイスイと足取りは軽やかである。席はほぼ埋まり、まもなくして旭川に着く。宗谷本線は長かった。
ところで最長片道切符のルートでは旭川の2つ手前の駅である新旭川から石北本線に乗車することになっている。なのに私は旭川まで来た。
これにはカラクリがある。次に私が乗るのは特急大雪3号である。しかし、新旭川には停車しない。そのためこの旭川ー新旭川の区間においては旭川の改札を出なければ旭川ー新旭川の運賃は徴収しないという特例が設定されている。つまり私はこの分岐駅通過の特例を今回適用したのだ。
キハ183系という今や貴重となった車両が爆音エンジンを轟かせながらホームに入線してくる。この音は何にも変え難い心地良さがある。
今回私はグリーン席を取った。なぜなら、ハイデッカーグリーンという大変貴重なグリーン車がこの車両には連結されているからだ。これは普通の座席よりも高い位置に座席があり、優越感を存分に味わえる。グリーン券は学生にとっては高嶺の花だが、これに乗るのが夢であったので奮発した。
乗り込んで車掌に今や聴く機会が激減した機械式のオルゴールを鳴らしてもらえないかと頼んでみた。車掌は快諾し、出発後の車内放送で流してもらえることになった。好きな車両のハイデッカーグリーンに乗り、さらに機械式オルゴールまで流してもらえるなんて私には至福のひとときである。
特急のグリーン車に乗るのは数年前に乗った特急サンダーバード以来のことである。
特急大雪3号は旭川を17時05分に発車するが、宗谷本線の特急が遅れており接続待ちが行われた。およそ7分遅れでゆっくりと発車した。初めに自動放送があり、大橋俊夫さんのダンディーな声が響き渡る。それから機械式オルゴール「アルプスの牧場」が流れた。その直後に車掌による放送があり最後にまたオルゴールが流れた。この数分間に並々ならぬ旅情を感じる。
列車はしばらく平野を疾走していくが、徐々に山深い所へと入っていく。
生田原を過ぎてしばらくすると常紋トンネルに入る。ここは負の歴史がある。とてつもなく過酷なタコ部屋労働で建設された。過酷な環境下での重労働で多くの死者を出した。遺体は隧道や現場近くの山林などに埋められたそうだ。
北海道の各地でタコ部屋労働が行われていたが、この常紋トンネルがある石北本線は特に酷かった。短い工期の中で長大な線路を敷かなければならなかった。
私がこうして楽しく快適に石北本線を始めとする北海道の鉄道路線に乗車できているのは開拓を進めた方々の涙ぐましい努力のおかげである。美しい北海道は多くの犠牲の上に成り立っているのだ。
私はこの常紋トンネルを通過する際にそっと手を合わせ、開拓に携わった方々へ感謝の気持ちを伝えた。
「石北本線の旅を楽しませてもらっています。
どうか安らかにお眠り下さい。」
その後、列車は留辺蘂に着く。「るべしべ」と読む。グリーン車には私以外にもう1人いたが、その人が留辺蘂で降り、貸し切り状態となった。
20時54分頃、定刻より5分ほど遅れて網走に着く。4時間近くの石北本線の旅はあっという間に終わった。旅の1日目は盛りだくさんの1日となった。